高校時代の「決心」と大学生活
高校生活では毎朝必ず般若心経を全生徒で唱えます。生徒の総数は中学高校で3,000人以上。
この学校は事あるごとに般若心経を唱える学校で、多いときは日に5回唱えさせられたこともあります。卒業生は今でも100%暗唱できると思います。
高校2年生になり、さあここで私も進路を考えました。
3、4才の時に親戚の家に遊びに行った時の会話です、父が私のことを「この子はとても賢くて」と言ってくれたのです。相手の叔母はそれだったら医者にしたらいいと、父に答えていたことをよく覚えています。
それが医師という職業を意識したはじめだったと思います。
交通事故の入院でたくさんの医療関係者の方々にお世話になったこともあり、「医者になりたい」と思いましたが、入江塾S組A組(上のクラス)の連中とまた受験勉強を戦うのかと思えば、気持ちがなえました。
そこで医療系の仕事で手先の器用さが活かせる仕事として歯科医師になろうと思いました。高校2年の春に決めました。
この、「自分で決めた」ということの意義は非常に大きかったように思います。
大学受験ですが公立は大阪大学、私立は大阪歯科大学というプランで臨み、結果大阪歯科大学にいく事になりました。ストレートで行きたかったのが大きな理由ですが後から考えると大阪歯科大学で大正解だったと思います。
地元に密着した医療が学べ、そして何より素晴らしい先生方、先輩方に恵まれました。
大学生活は勉強にクラブ活動に精を出しました。
クラブは能楽部。
特に日本の伝統芸能や古典に興味があったわけではなく、ただ先輩の勧誘に乗っただけだったのですがこの決断がこの後の大学生活を大きく変える事になるとは思ってもいませんでした。能楽のクラブ活動も楽しみましたが、その先輩と密なつながりをもったことで、さらにおおきな「活動」を行うことになったのです。
大学三回生になる前のことでした。
先輩から「ちょっと大学の学友会に出てくれないか」と誘われたのです。
何の気なしに引き受けましたが、これがなかなか大変な仕事でした。
毎日、本館4階の学友会室に1時に必ず集合。
この学友会というのは運動部の全国歯学部大会(デンタル;8月)の運営、サポート、集計等を一手に引き受けています。そして秋の大学祭なども主催します。
そう、図らずも私は、学生が自発的に運営する大きな組織の一員となったのです。
学生の世界と、大学をはじめとした「社会」との橋渡し役です。
3回年で総務委員長4回年で学生部協議委員長、大学祭実行委員長となり6回年で引退するまで4年間学友会室の虫になり、雑務に追われる日々を過ごしました。
引退後も国家試験対策委員、謝恩会実行委員と、世話係に徹しました。
大学の6年間の思い出は学友会活動、学祭前の部室での寝泊りや徹夜、塾講師のバイト塾の夏合宿、今は全て楽しい思い出です。
国試対策の思い出は私の塾講師の経験を活かして我が学年の合格率を上げるべく予算を工面したり、会費制にしたりして学外より国家試験対策の講師を招いたりして頑張りました。
しかしながら結果は、合格率は例年並み。
同期の対策委員が予想外に落ちたり、学年のマドンナ的存在が落ちたりと苦い思い出となりました。
自分の出来うる万全を期しても、すべてがうまくいくわけではない、という厳しさもそのとき学んだように思います。
卒業後は3つの教室から残るように言われましたが、卒後研修は1年で必ず辞めて開業準備のための勉強をすると心に決め、総合3診歯周病学教室に残りました。
そこで出会った人が総合3診主任講師星野茂先生でした。
同窓の先生方でこの先生のことを知らない人はいないと思います。この名物講師の下で卒後1年間マンツーマンで研修を受けたことは、今となっては貴重な体験でした。
この年は本学卒業生男2名女2名他大学卒業生3人というとんでもなく少ない数の卒後研修でした。
診療所総合三診での研修が始まりました。
各教室から派遣された指導医の下、少ない人数を生かして思う存分研修に励むことができました。
専門の先生方に質問したいだけして、患者さんもとりたいだけ取り、オペ見学にも科を超えて出席することができたことは、その後の大きな財産になりました
卒後研修を終えてその後の勤務先は、保存診療がメインの大阪の医院と自由診療をメインとする尼崎の医院に週3日ずつ掛け持ち勤務することにしました。
勤務先の先生のご縁で当時一番大きな組織力のある学会に所属することができ、東京・名古屋で行われる研修に週末に出かける日が2年間続きました。
その時の楽しい思い出は、ある先生の紹介でスタディグループの幹部の「神戸上村歯科医院(今はありません)」に見学に行かせて頂いた時の話です。
先生は卒後2年目の若造に快く、みっちり1日中あれこれ説明をしてくださいました。
その日の朝の朝礼で見学の私を皆に紹介して下さった後、「弁当は持ってきてないんやろ、昼は出前とったるわ。何が食べたい」と聞かれ、私は「なんでも結構です」と答えました。
なんだかまわりが意味深長な笑みを浮かべていらっしゃった理由は、昼食のときに判明しました。
午前診が終わり昼休みになって出てきた出前は、3人前もあろうかと思われる大盛りカツカレーだったのです。
それしきのことで怖気づく私ではありません。
当時、私は体重90キロを超えていましたので余裕で大盛りカレーを完食し、また午後の診療に臨みました。
院長先生に診療終わりにお礼を言うときに、来年この医院を移転するという事で、また見学させてくださいというと、「次はお金を取るで」と笑顔でおっしゃり、もちろんその後新しい医院も見学に行かせて頂きました。
神戸の地震の6か月前の事だったと思います。
その数年後、院長先生は胃がんで亡くなるのですが、いろんな人の御恩の上に今の私があるのだなとしみじみ思っています。
誕生から小学校時代
私は大阪府大東市に、3才上の姉のいる4人家族の長男として、昭和42年ひつじ年の11月30日に生を受けました。
ものごころついて一番最初の記憶は、自宅の一室で、一人で無心にブロック遊びをしていたことです。
両親が町工場を自営しており、自宅は工場の奥にあったので物音はしていたはずですが、音の記憶はありません。それだけ集中していたのでしょう。
物作りに関わる父の影響か、子供のころから、根気よく細かな作業をすることが大好きだったように覚えています。
この時期に、私の人生でひとつめの大事件に遭遇します。
「交通事故」です。
4才になったばかりのある日、工場の前で遊んでいて車にはねられました。
頭を強打し、頭蓋骨骨折のため、その後一年近く入院しました。
幸い手術はしないで済んだのですが、幼心にも、自分の不注意で親に大変な心配と迷惑をかけたと反省し、いまでも申し訳なく思っています。
この入院中の出来事、病院の見取り図、先生のお名前と顔を今でも鮮明に覚えています。
また、交通事故で入院していた最後の日、病院より入浴の外出許可が出て母親と病院の近くの銭湯に行ったことも、昨日のことのように思い出せます。
おそらく、退院の開放感もあったのでしょう、母と銭湯に入り体を洗ってもらったことは、たいへん嬉しい出来事でした。