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歯を抜かない矯正・小児歯科ならのむら歯科|大阪府四條畷市

大阪府・四條畷市の歯科医院です。永久歯を抜かない矯正歯科。マウスピース矯正も行います。

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野村昭人ストーリー

のむら歯科・矯正歯科、院長 野村昭人ストーリーにしばらくお付き合いください。

誕生から小学校時代

私は大阪府大東市に、3才上の姉のいる4人家族の長男として、昭和42年ひつじ年の11月30日に生を受けました。

ものごころついて一番最初の記憶は、自宅の一室で、一人で無心にブロック遊びをしていたことです。
両親が町工場を自営しており、自宅は工場の奥にあったので物音はしていたはずですが、音の記憶はありません。それだけ集中していたのでしょう。
物作りに関わる父の影響か、子供のころから、根気よく細かな作業をすることが大好きだったように覚えています。

この時期に、私の人生でひとつめの大事件に遭遇します。

「交通事故」です。

4才になったばかりのある日、工場の前で遊んでいて車にはねられました。
頭を強打し、頭蓋骨骨折のため、その後一年近く入院しました。
幸い手術はしないで済んだのですが、幼心にも、自分の不注意で親に大変な心配と迷惑をかけたと反省し、いまでも申し訳なく思っています。

この入院中の出来事、病院の見取り図、先生のお名前と顔を今でも鮮明に覚えています。

また、交通事故で入院していた最後の日、病院より入浴の外出許可が出て母親と病院の近くの銭湯に行ったことも、昨日のことのように思い出せます。
おそらく、退院の開放感もあったのでしょう、母と銭湯に入り体を洗ってもらったことは、たいへん嬉しい出来事でした。

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幼稚園のころ、好きだった絵本は「天狗の隠れ蓑」で、この絵本は毎日寝る前に母に何度も読んでもらいました。
主人公の彦一少年は村で有名ないたずらもので、ついには天狗様からも‘隠れ蓑‘という大変なお宝(透明人間になれる)をだまし取って痛快ないたずらをするというものですが、家に隠しておいた隠れ蓑を母親にゴミと間違われ焼かれていました。

普通ならそこで諦め、おしまいになるはずが、なんと彦一は焼けた隠れ蓑の灰をまだどうにかつかえないかと体中に塗って、また透明人間になり、そしてまたいたずらをつづけるのです。

私は彦一のその頑張り、不屈の精神に子供ながら感心していました。何度読んでもらっても楽しかったことを覚えています。

交通事故の入院があって、幼稚園の年長クラスはあまり通えずに過ごした私は、小学校に入学したとたん皆が既に習っていたひらがな・カタカナをなかなか覚えられずに苦労した記憶があります。とはいえ、躓いたのはそこだけで、小学校での6年間は楽しい学校生活でした。

また、当時、私の住む町に流れていた寝屋川はよく氾濫を起こしました。
「大東 大洪水」と呼ばれる寝屋川の氾濫で、毎年のように床上浸水したのも小学校低学年の私にはただただ楽しい思い出です。両親は大変だったと思いますが。

幼少のころから、不便や困難を楽しむことに長けていたとは思います。

中学生時代の入江塾体験

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小学校を卒業し、私は公立中学校へ進学します。

そしてふたつめの大事件に遭遇します。
父がある日新聞を見ていて、ある広告に目を止めたのです。
それは塾の生徒募集の広告でした。

塾の名前は「伸学社 入江塾」

入江 伸先生という名物塾長率いるスパルタ塾でした。
そうです、ラサール石井の行っていた塾と言えばおわかりになる方もいらっしゃるかと思います。
私の成績はこの地域の小学校では良かったのですが、当時高校受験がホットな時代でした。
自営業だった父は、子供の教育には高い関心があったのです。
入江塾は、近隣では超難関として知られる灘校に多数の合格者を出し、中には満点合格を出す生徒までいてマスコミに取り上げられたほどの有名な塾でした。

「昭人、この塾に行ってみるか?」

この一言で私は伸学社の社員になりました。
社員とは塾生の事で、名前の代わりに社員番号で呼ばれます。朝から本当に勉強漬けの毎日となりました。学校が終わればすぐに夕食を摂り1時間かけて片町線、環状線、上町線と乗り継ぎ塾へ通い、帰りは11:30~12:00という毎日が続きました。
それまで比較的自由に、のびのびと学業を修めてきた私にとっては、まったく新しい経験でした。

入江塾での一番思い出は、合宿です。
兵庫県篠山市永上郡の山深い山中に合宿所はありました。
当時の入江塾は、成績順のクラス編成で食事と睡眠以外は全て勉強で、まるで勉強教という宗教の究極の姿のようでした。
「起床・起床」の合図とともに起こされ、裸足のまま砂利道のランニングが始まります。
ふざけたりだらけたりすると体罰満載で「貴様はヨタか」「ヨタっておる退塾しろ」と塾長に言われます。

一番の問題は入浴、歯磨きをみんながしないという事でした。当然虫歯になります。私の勝手な想像ではありますが、現在、東大理三 灘校出身者で歯が悪い人(45才~60才関西出身)は多分入江塾出身者ではないかと思います。

入江塾での私の成績は中ぐらいだったかと思います。
平日は通学で入江塾、春夏冬の休みは入江塾の合宿、入江塾三昧の生活が1年半くらい続くのですが、やはり自分の限界に気づき始めました。

上のクラスの人は自分とは何かが違う。

彼らは一度聞けば瞬時に理解しているのです。
自分の中で反芻して飲み込む時間が極端に短い、ということでしょう。
受験勉強では、私がいくら戦っても勝てる相手ではないと悟り始めました。
そのうち塾に行くといっては家を出てから当時の天王寺アベノの旭屋書店で時間を潰して街をウロウロして帰ってくる日が混じりだしました。
塾通いをはじめて1年8か月。結局、母に何とか頼んで退塾させてもらいました。

今思えば「自分に向いた勉強法」を模索していた時代だったと思います。
当時は意識していませんでしたが、入江塾の勉強方法で、私が一番合わなかったのは、自分の選択の余地がないということだったように思います。
入江塾では劣等生でも、私は公立中学では上位ヒトケタには入っていました。
しかしクラブに入っていない、友人がいない、塾優先の生活をしていたのでは内申書は全然ダメでした。
結局、高校受験は、内申点の比重が大きい公立高校は不合格だったので、仏教系の一貫校で当時厳しい規律で評判の私学の男子校に進学しました。

12才で経験した入江塾での生活を思えば、その厳しい高校も、その後入学する歯科大学での勉強も、国家試験勉強も全然苦になりませんでした。

高校時代の「決心」と大学生活

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高校生活では毎朝必ず般若心経を全生徒で唱えます。生徒の総数は中学高校で3,000人以上。

この学校は事あるごとに般若心経を唱える学校で、多いときは日に5回唱えさせられたこともあります。卒業生は今でも100%暗唱できると思います。


高校2年生になり、さあここで私も進路を考えました。
3、4才の時に親戚の家に遊びに行った時の会話です、父が私のことを「この子はとても賢くて」と言ってくれたのです。相手の叔母はそれだったら医者にしたらいいと、父に答えていたことをよく覚えています。

それが医師という職業を意識したはじめだったと思います。

交通事故の入院でたくさんの医療関係者の方々にお世話になったこともあり、「医者になりたい」と思いましたが、入江塾S組A組(上のクラス)の連中とまた受験勉強を戦うのかと思えば、気持ちがなえました。
そこで医療系の仕事で手先の器用さが活かせる仕事として歯科医師になろうと思いました。高校2年の春に決めました。

この、「自分で決めた」ということの意義は非常に大きかったように思います。


大学受験ですが公立は大阪大学、私立は大阪歯科大学というプランで臨み、結果大阪歯科大学にいく事になりました。ストレートで行きたかったのが大きな理由ですが後から考えると大阪歯科大学で大正解だったと思います。
地元に密着した医療が学べ、そして何より素晴らしい先生方、先輩方に恵まれました。

大学生活は勉強にクラブ活動に精を出しました。

クラブは能楽部。

特に日本の伝統芸能や古典に興味があったわけではなく、ただ先輩の勧誘に乗っただけだったのですがこの決断がこの後の大学生活を大きく変える事になるとは思ってもいませんでした。能楽のクラブ活動も楽しみましたが、その先輩と密なつながりをもったことで、さらにおおきな「活動」を行うことになったのです。

大学三回生になる前のことでした。
先輩から「ちょっと大学の学友会に出てくれないか」と誘われたのです。
何の気なしに引き受けましたが、これがなかなか大変な仕事でした。
毎日、本館4階の学友会室に1時に必ず集合。
この学友会というのは運動部の全国歯学部大会(デンタル;8月)の運営、サポート、集計等を一手に引き受けています。そして秋の大学祭なども主催します。
そう、図らずも私は、学生が自発的に運営する大きな組織の一員となったのです。

学生の世界と、大学をはじめとした「社会」との橋渡し役です。

3回年で総務委員長4回年で学生部協議委員長、大学祭実行委員長となり6回年で引退するまで4年間学友会室の虫になり、雑務に追われる日々を過ごしました。

引退後も国家試験対策委員、謝恩会実行委員と、世話係に徹しました。
大学の6年間の思い出は学友会活動、学祭前の部室での寝泊りや徹夜、塾講師のバイト塾の夏合宿、今は全て楽しい思い出です。

国試対策の思い出は私の塾講師の経験を活かして我が学年の合格率を上げるべく予算を工面したり、会費制にしたりして学外より国家試験対策の講師を招いたりして頑張りました。
しかしながら結果は、合格率は例年並み。

同期の対策委員が予想外に落ちたり、学年のマドンナ的存在が落ちたりと苦い思い出となりました。
自分の出来うる万全を期しても、すべてがうまくいくわけではない、という厳しさもそのとき学んだように思います。

卒業後は3つの教室から残るように言われましたが、卒後研修は1年で必ず辞めて開業準備のための勉強をすると心に決め、総合3診歯周病学教室に残りました。

そこで出会った人が総合3診主任講師星野茂先生でした。
同窓の先生方でこの先生のことを知らない人はいないと思います。この名物講師の下で卒後1年間マンツーマンで研修を受けたことは、今となっては貴重な体験でした。
この年は本学卒業生男2名女2名他大学卒業生3人というとんでもなく少ない数の卒後研修でした。

診療所総合三診での研修が始まりました。

各教室から派遣された指導医の下、少ない人数を生かして思う存分研修に励むことができました。
専門の先生方に質問したいだけして、患者さんもとりたいだけ取り、オペ見学にも科を超えて出席することができたことは、その後の大きな財産になりました

卒後研修を終えてその後の勤務先は、保存診療がメインの大阪の医院と自由診療をメインとする尼崎の医院に週3日ずつ掛け持ち勤務することにしました。
勤務先の先生のご縁で当時一番大きな組織力のある学会に所属することができ、東京・名古屋で行われる研修に週末に出かける日が2年間続きました。
その時の楽しい思い出は、ある先生の紹介でスタディグループの幹部の「神戸上村歯科医院(今はありません)」に見学に行かせて頂いた時の話です。

先生は卒後2年目の若造に快く、みっちり1日中あれこれ説明をしてくださいました。
その日の朝の朝礼で見学の私を皆に紹介して下さった後、「弁当は持ってきてないんやろ、昼は出前とったるわ。何が食べたい」と聞かれ、私は「なんでも結構です」と答えました。

なんだかまわりが意味深長な笑みを浮かべていらっしゃった理由は、昼食のときに判明しました。
午前診が終わり昼休みになって出てきた出前は、3人前もあろうかと思われる大盛りカツカレーだったのです。

それしきのことで怖気づく私ではありません。

当時、私は体重90キロを超えていましたので余裕で大盛りカレーを完食し、また午後の診療に臨みました。

院長先生に診療終わりにお礼を言うときに、来年この医院を移転するという事で、また見学させてくださいというと、「次はお金を取るで」と笑顔でおっしゃり、もちろんその後新しい医院も見学に行かせて頂きました。

神戸の地震の6か月前の事だったと思います。

その数年後、院長先生は胃がんで亡くなるのですが、いろんな人の御恩の上に今の私があるのだなとしみじみ思っています。

目指すべき歯科のありかた・そして開業

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ここから私の開業の準備です。私はどこででも開業することが出来ました。親の跡を継ぐというのでもないので自分の思うところで開業できたのです

当時いろいろと医院を見学させてもらった中に東京原宿の表参道のビル2階、歯科関係者なら誰しも一番に思いつく先生の医院がありました。

「原宿デンタルオフィス」です。

この先生の診療所の見学は、私にとっては衝撃でした。
来院の患者、先生たちの振る舞い、町の様子、田舎者の私にはどれも新鮮でした。

これを見て私は考えました。
よしこれを目標に頑張ればいいのだなと。それから20年を経て、その診療所に近づけているかどうか、いつも自問自答の日々です。
結局、生まれ故郷の大東市の隣の市、四條畷市のJR忍ヶ丘駅前のビル2階で、私は開業しました。

平成8年4月8日開業。

野村昭人28歳の春の出来事でした。

のむら歯科・矯正歯科の毎日

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当院は大阪北河内地区の山側、住宅地にあり周りには大きな商業施設や学校、会社はありません。患者さんの年齢層は多様で、高齢者は9:00~11:00、3才以内の子供と母親は11:00~12:30、4:00~6:00は小・中学生、高校生、6:00~7:30は仕事帰りの男性となってきます。

つまり0才から90歳の患者さんを毎日来る日も診させてもらっていますと、人間はいつごろどんな理由で歯が悪くなるか、どんなきっかけで口腔内に人工物が入り、いつ頃再治療が必要になり、入れ歯は何歳くらいで入れ替えなければいけないかが体感的に身にしみてわかってきます。

開業して20年もたてば、小学生のころ治療した患者さんが大学生になり社会人になった姿を見ることが出来ます。自分の思っていた治療になったか、確認できますし、その原因が患者側にあったかどうか、本人の習慣から来るものかも感じ取ることが出来ます。


人は一人一人では弱い存在です。

時として無知や独りよがりで不安にさいなまれて生活しています。

歯科医が歯を治すのは当たり前ですが、そこに何かもう一つ歯を良くも悪くもする因子があるのではないかと考えました。それが行動変容療法です

人は誰しも不安な気持ちを持ちながら生きています。人生にはままならないことも起こります。特に不確実性と不透明性が高まっている現代を生きる私たちにとって、どんなに真面目に生きていても自然災害や事故、紛争に巻き込まれたり、突然の病気に見舞われたり、大切な人の死に直面したり、そしてとんでもない人間関係に翻弄されることも起こります。

これらの事は生きていくうえで残念ながら避けて通ることはできません。

そういったときに人間の脳はストレスを抱え込み、その代償行動としての過度の「過食」「飲酒」「喫煙」を行ってしまうことがあります。

私は、それらをどのようにうまくコントロールするかの手助けをしたいと考えています。

いまある口腔内のトラブルに対処するだけでなく、将来にむけてのアドバイスをし、患者さんたちの口腔内をいかに守っていくかが、これからの歯科医師に求められる姿だと考えています。

2008年、ご縁あって大東市にあるたかばたけウィメンズクリニックの高畠桂子先生と知り合いになり、妊婦教室・母親教室の歯の健康コーナーをまかせていただけるようになりました。


このような活動を始めるにはきっかけは、妻の妊娠でした。

第1子が双子で、最初にかかった近くの産院から大学病院へ移り、その後妊婦管理入院、流産の危機を持ちこたえて誕生は帝王切開、小さく生まれたので低体重児管理のNICU(新生児専用のICU)入院を数か月という困難を乗り越え授かりました。

いまではそのふたりも元気そのもので、日々を過ごしていますが、その頃は開業して間もなくでしたので、夫婦共々家庭と仕事で大変でした。

入院中、妻は毎日、私も頻繁にNICUに通い搾乳、授乳、育児を教えてもらいながらやりました。
専門家のアドバイスを受けながら育児に励めたので、安心して、かえってのびのびと育児が出来ました。

そうするうち先生方や看護師さんたちと親しく話すようになり私の職業柄歯に関する質問もされるようになりました。意外と医科の先生方は歯に関する事に関心がおありなんだなと思いました。

我々夫婦と同じように低体重の子どもさんを育児されているお母さんたちと悩みを相談しあったり、元気で退院していく子供ばかりでないことを知ったり、あるお母さんでは胎児と一緒に過ごせた妊娠中とNICUでの入院期間が唯一の親子の思い出の人もいると真近で知ったことは私にとってかけがえのないものになりました。

NICUとは実に不思議な場所です。

人間社会に出る準備する狭間の場所。
しっかり生きる準備をして頑張っている新生児たちの面倒を見るだけでなく、そこに勤める医療人の方々は、新生児の両親の事も支えて励ましてくれていました。

私もそんな時期の人たちに寄り添って、今後の歯科診療に活かしていきたいとずっと思ったのです。
女性は、人生のうちで最もしんどくて忙しいこの妊産婦の時期に歯の手入れがおろそかになります。

それはその後の健康人生に大きく影響します。

また、乳幼児の生えてきたばかりの歯に対する基礎知識を知ってもらうことはその子の歯列や永久歯の耐久年数に大きくかかわります。その最もタイムリーな時期の妊婦・母親教室でお話しさせていただくことは私にとって大切な仕事です。

母親教室のお母さんたちは思いのほか熱心にメモを取りながら聞いてくれます。
歯の健康は体全体の健康に関わり、活動や気力の源になります。
喜びを噛み締められる歯、人生の困難に立ち向かう時に食いしばれる歯を、私と新生児のご両親は、育てているのだと思います。

長年にわたって重要な役割をする歯の事を、幸せな健康人生のためにしっかりと伝えていきたいと思っています。

歯と人生を考える

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お話は変わりますが、幸せについて少し考えてみました。

今からお話しするのは、統計学、医学的に考察から導き出された一つの見解です。

「自分で決める」という事の大切さです。

人生の重大事から、今日の夕食の献立のような些細な生活の一部まで、「決定」することはたくさんあると思いますが、いま、我々はそれを友人に相談したり、ネットで検索したり、専門家に聞いたり出来ます。

しかし最終的に決めるのは自分で決める。そのことが大切です。

ある老人ホームの話です。選別なく入所者全員に観葉植物を配りました。半数の人は世話をスタッフに任せました。半数の人は自分で水やりなどの世話をしました。6か月後、世話をスタッフに任せていた老人は30%が亡くなっていました。自分で世話をした方は亡くなったのは15%でした。これは実に大きな差です。

もう一つの実験を見てみますと、老人ホームに学生ボランティアが訪問するプログラムがあるのですが半分の入所者は学生ボランティアの来る日を自分で決めました。

もう半数は学生側が来訪する日を決めていました。2か月後、自分で予定を決めていた老人は薬の使用量もへり、活動的で健康が維持されていました。そのさらに数か月後は自分で予定を決めていた老人の死亡率はそうでない半数より低い結果になりました。

これは自分でコントロールできることの多さが心身にどのように影響を与えるかを調べる研究です。

人は「自分の行動をコントロールしたい」という強い欲求を持っています。コントロールできるとより幸せで、健康で活動的になる。生活の質の向上につながっていることがわかります。給食より自由なブッフェ形式の方が食欲が増し、生き生きと食事を楽めるのに似ています。

このことは何も老人に限らず万人に当てはまります。人は、身の回りの出来事や、ひいきのスポーツチームの得点まで、コントロールしたい欲求があります。

ですから基本として自分の事を自分で決めて行動することを子供のころからトレーニングしていき、人に決めてもらうのではなく、自分で決断することが大事なのです。
 

そして次に、私の考える「幸せの三条件」のお話をしましょう。

自分自身を知り、自己受容が出来ている人

長所も短所も含めた自分を知り、それを自己受容出来ている人です。自己受容出来ていない人は、落ち込みやすく「なんであんなことをしたのだろう」と過去を後悔し、些細な失敗から立ち直るのに時間がかかります。それは失敗した自分を認めたくないという心の作用がそのようにさせるのです。つまり失敗した自分を自己受容出来ていないことになります。

失敗は辛く、自分の価値が下がったのではないかという不安な気持ちを受け止め、あの状況では残念だけれども失敗してしまう自分がいるのだと認め、自己受容が出来ると、失敗から新たな学びを得て、案外早く立ち直れるものです。

このように本当の自分の心を知る作業は、自分で自分の顔を見るように実は難しい作業です。人の顔は見えても、自分の顔は見えず、鏡というものを用いてはじめて自分自身の顔が客観的に見えるのと同様です。人の心も同じです。自分の心は自分が一番よく分かっていると思っていても実はよくわからないのも自分の心です。こういう時に心を映し出す鏡のような役割を担う仕事をしているのが臨床心理士であり、カウンセラーの仕事になります。けれども専門家に会わずとも自分の本当の気持ちに出会うことが可能です。それが実は悩んだ時なのです。

悩みを通して、本当の自分の姿が見えてきます。


また、子供や自分の身近な人には自分の劣等感が映し出されやすいので、それを自分で認めたくないと、相手を自分の思い通りにしようとします。自分の劣等感を克服するために相手をコントロールする傾向が強く出てきます。しかし、それが相手の自主性を阻み、結果的に相手との心理的葛藤が起こりやすくなります。我が子供に虐待をしてしまう実の親の典型的な事例です。

その人の心はその人の世界観(モノの見方)に反映して出てきます。このように意識すれば自分を映し出してくれる鏡はあちらこちらにあるのです。そこに映し出された自分の心に気づき、時に本当の認めたくない自分の心を認めることが出来ると、人は大きく成長します。

「気付き」は本当に人を変えていく原動力になっていきます。なぜならば、気づけた人は、「変わる選択」と「変わらない選択」が出来るからです。自分でそれを選べた人は、どちらの選択をしても、全く気付かずに漫然と暮らしている人よりも幸せ感は大きく異なります。

自分を表現する術を持っていること

次に何でもいいのですが、自分らしさを表現できる術を持っている人です。話すことでも、書くことでも、絵を描くことでも、モノを作ることでも、歌う事でも、体を動かすことでもなんでもいいですので、これぞ自分と思えるものを表現でる術を持つことです。人は自分の気持ちがわからず表現できなくなると心が弱ってきます。自己表現は幸せに導く道になります。

自分自身のプロデューサーになる

最後に、人は、幼い頃からの親子関係や養育環境の影響を大きく受けて人格や性格等を形成しています。そして成長に伴い、様々に出会った人たちの影響も受けつつ、自己が無意識に形成されていきます。しかし、最終的には、自分自身を作り出すのは自分自身以外の何物でもないことを自覚する必要が出てきます。「どうせ私なんて・・・」と人生を投げやりに思っている人は、5年後、10年後も「どうせ・・・」と思う人生を展開してしまう可能性があります。先行するイメージが、自分の未来までも拘束して作り上げてしまう可能性が高いからです。今の未熟で至らない等身大の自分を受け止めて、将来は「こうなりたい」と思っていると、不思議とそのイメージが現実化してくるのも心の持つ力の不思議の一つと言えるでしょう。意識の中心にある自我が影響した選択があとにその人の生き方に大きな影響を与えていきます。

おまけ

回復力(レシリエンス)を身に着ける事、レシリエンスとはどんなに辛い体験があってもそこから立ち直る力の事です。

今述べた幸せの条件を獲得している人は確実に心のレシリエンスは高くなるといえるでしょう。私たちはどんなに頑張っても相手を自分の思い通りにできませんし、自分の過去も変えられません。けれどもそれらに向かい合う今の自分の考え方や生き方、そして過去に起こった出来事の意味づけはいくらでも変える事が出来ます。不幸と思えることも幸せに変える叡智を人は持っている事を感じます。

体の健康、歯について言いますと、歯が他の臓器と違うところは自分で管理しやすい所です。目に見えるし手も届きます。

美しい歯列を実現することもできる、生涯自分の歯でおいしく噛んで食事をする事も出来ます。そこを自分で決めるのです。様々なあり方を知った上で、自分に合った方法で必要なものを選んでほしいのです。

私の「これから」

初めに申しましたがどこで開業してもしがらみのない私が近畿圏の様々な都市、住宅街、ビジネス街、そして憧れのあった街並み等をいろいろ巡って悩んでいたとき、この四條畷の忍ヶ丘駅に来たとき何か言い知れぬ親しさに包まれて「ここに決めよう」と自然に思えました。
そして今に至ります。これからもこの縁の深い場所、人々、美しい山間の街並みとともに歩んでいこうと思います。

これからも感謝を忘れず、精進し続け少しでも地域の皆様に恩返ししたいと思っております。とりとめない長い文章に最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
電話番号
072-862-1020
診療時間
月~金 9:00~12:30/14:30~20:00
土 9:00~13:00
休診日
日曜・祝日
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大阪府 四條畷市 岡山東1-8-2

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